2005年・アンデルセン生誕200年記念 第1回アンデルセン童話落語会から
アンデルセン童話がはじめて日本に翻訳紹介されたのは明治21年(1888年)とされています。そして森鴎外訳の「即興詩人」が刊行されてからブレークし、以来多くの文学者、作家、芸術家に影響を与え続けています。とりわけ児童文学者に与えた影響は大きく、小川未明、宮沢賢治などはアンデルセン童話に触発された作品を多く残しました。奔放な想像力を駆使した物語の多くは他の童話作家に大きな影響を与えています。ハリー・ポッターや宮崎アニメのルーツをたどると、類を見ない奔放な想像力で書かれたアンデルセン童話に行き着くはずです。
しかし日本でのアンデルセン童話というと、やや教育臭がただよい、子どもの教育のなかで教訓話として読み聞かされることが多かったようなところがあり、それがアンデルセンとアンデルセン童話へのステレオタイプな理解につながっています。
みにくいアヒルの子が白鳥に変わる物語はたんなる「出世主義者を描いたもの」と切り捨てられたり、あるいは「マッチ売りの少女」をとりあげて、残酷すぎるとか悲しすぎるとかいわれて嫌がられることがあります。しかしこれらの批判的見解は、現代の私たちが生きる社会の尺度を当ててみたものであり、アンデルセンの生きた時代背景を無視したもので、想像力を欠いた見方だと思います。そもそも、アンデルセンを否定的に言う人達のほとんどが、デンマーク語でアンデルセン童話を読んだことがありません。それは詰まるところ、アンデルセン童話のほんとうのおもしろさを知らない、たいへんたいへん不幸な人達なのです。
アンデルセンは150話ほどの童話を書き残しましたが、それらはナンセンス物、冒険譚、成功話、秘話、悲話、恋愛物、教訓物、宗教物などありとあらゆるタイプのお話が用意されています。アンデルセンは、彼が生きた当時としてはめずらしい、話言葉をそのまま書き写す形で童話を書きました。またアンデルセンは詩人でもありました。ですから、アンデルセンの童話にはデンマーク語独特の音声を意識した文言や言い回しが多いのです。いいかえれば本来読み聞かされてこそ、その真価が現れる童話なのです。アンデルセン童話の日本語訳は、今になってみれば誤訳が多いですし、そもそも耳で聞いて愉しむお話を、読書してしまっては、彼の童話のほんとうのおもしろさをそいでしまうのです。 アンデルセンの童話は、すぐれた語り手によって語られることで、彼の童話の本来のおもしろさは引きだされるのです。
「声にだして読みたいデンマーク語」。
それがアンデルセン童話なのです。とはいうものの、児童文学者や物書きは別として、普通の日本人にアンデルセン童話を言語で読め、などということは無理難題です。そこでデンマーク語のできる私は、彼の童話のおもしろさをなんとか伝える方法はないものかと考えてきました。そこで思い当たったのが、大好きな落語でした。
日本には「落語」というすぐれた伝統話芸があるではないですか。あることないことを面白おかしく伝える落語をあらためて聞き直すと、アンデルセン童話同様、さまざまな内容のお話がある。そして、そのお話は字面にして読むとまったくおもしろくないのに、ひとたび、語りのプロ、つまり「落語家」の手にかかかると腹を抱えて笑い転げる話にかわります。
アンデルセン童話を例に取れば、「小クラウス、大クラス」は、運良く幸運にありついた小クラウスをまねて、大クラウスが同じ事して失敗し殺されてしまう話です。ややブラックな結末ではありますが、話しの展開は日本の落語に通じるものがあります。
これは、「今何時?」と聞いて勘定をごまかす若い衆を見た凡人が、自分も同じようにやって勘定を多く払ってしまうオチがつく「時そば」の骨子によく似ています。日本の昔話でいえば、「はなさかじいさん」にも通じます。「裸の王様」は、子どもたちが大人たちの見栄を嗤う落語(たとえば「てんしき」)に通じます。
アンデルセンの童話を日本の落語で語り変えたらどうだろう。話芸の専門家である落語家に語らせたらどうだろう、と考えました。たとえばよくしられているアンデルセン童話の一つ「王様の新しい衣装(裸の王様)」は、詐欺師の物語。詐欺師は「自分たちが作る服はそれはずばらしいものだ。しかも賢い人にしかみえないという透明の服です」といって王様をだますのです。よくもまこんなウソッパチで、と思うのですが、実はこういう話の展開はあなどれません。たくさんの人がオレオレ詐欺の被害にあっていることをみれば、話しを私達に仕掛けられる落とし穴の怖さを笑いにまぶして、教えたアンデルセンのお話のすごさがわかろうというものです。
こで私たちは落語家の桂扇生師匠と三遊亭吉窓にこの計画をお話ししたところ、二つ返事で、この試みを引き受けてくださいました。 私たちは4つほどの落とし話になりそうな童話を師匠にご紹介しました。アンデルセン童話が落語家の手によってどのように変わるか請うご期待です。かならずやアンデルセン童話の新しいおもしろさをお伝えできると思います。